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■ 【しあわせの手紙】 「友達なんか」
 

    小学生の頃、俺は引っ越しばっかで全く友達がいなかった。 
    ってか、友達なんか必要ないって思ってた。 

    ホントは寂しくて仕方なかったけど、
    できあがった輪の中に入ることが怖くていつも一人で遊んでた。 
    
    たまに誘われても「どーせすぐ別れる」とか思ってたら愛想笑いして断るのが上手くなった。 
    
    で、小6くらいの時またいつものように引っ越しした。 
    だけど、そのときの引っ越しはいつもとはちょっと違ってもう一度同じ学校に戻ることになった。 
    小学校2年の時の学校に。 

    予想はしてた。 

    居る時間も短かったし俺のことを覚えてる奴はほとんどいなかった。 
    俺だって相手のことを忘れていた。思い出す気もなかった。いつものように一人で居た。 
  
    
    この年になると表面上つるむ事はし出してたけど大体は一人だった。 
    で、またその学校で過ごすようになって1週間くらいたった頃、
    一人の野郎が俺に封筒を渡してきた。 
    
    「おかえり」とか言って。 

    何言ってんだ?こいつ。とか思って封筒の中身見たら、小2の遠足ん時の写真だった。 
    集合写真じゃなくて、俺と、そいつで撮ってる写真。 

    たまたま近くにいたから、気まぐれで、思いつきで撮った写真だろう。 
    撮ったことなんか全然覚えてなかった。 
  
    俺のアルバムはほとんど集合写真。 
    写真を撮らないから。 
    撮る相手も撮ってくれる相手もいないから。 
    
    家族は写真じゃなくてビデオばっか撮ってたし、ホントどのページも集合写真。 
    
    だからアルバムは嫌いだった。 
   
    
    「なんか捨てるに捨てれなくてさ。渡せて良かったよ。おかえり。」 
    そう言われた時、俺はヤセ我慢した。 

    無愛想に「捨てても良かったのに。お前アホやろ。」って言った。 
    ありがとうも言わなかった。 

    家帰った後、ずっとその写真眺めてた。 
    「もっと笑えよなぁ、俺。無愛想な顔しやがって。」とか言ってニヤニヤしてた。 
    ・・・嬉しくて泣いていた。 

    まこちん、あん時はホンマありがとう。 

    今でも感謝してる。 




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■ 【しあわせの手紙】 「甲子園」
 

   私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、
   「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、
   小さい頃良く聞かされていました。 

   そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。
   父も良くキャッチボールをしてくれました。 

   そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。 
   ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。 

   その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。 
   父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。 
   父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。
  

   そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。 
   それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。 

   翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、
   私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。 

   公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。 

   父とのキャッチボールは、小学校以来でした。
   しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。 

   病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。 
   すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。 

   「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。 
   私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。 

   父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。 
   父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。 

   ショートバウンドになった球は、
   本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。 

   30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。

  「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。
  

   その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。 
   さらに数週間後、父の意識は無くなりました。 

   そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。 

   ガンでした。 

   病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。 
   父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。 

   「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、
    私はこの日を楽しみにしていた。 びっくりした。すごい球だった。
   自分の高校時代の球よりはるかに速かった。 彼は甲子園に行けるかもしれない。
   その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。 
   もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。
   人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」 

   私はこれを見て、父の想いを知りました。
   それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。 
  

   翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。 
   決勝の相手は、甲子園の常連校でした。
   見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。 

   ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。 
   10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。 
   そのとき打順は、9番バッターの私でした。 

   相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。 

   あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、
   亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。 

   気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。 
   
   私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。
   サヨナラ勝ちでした。 

   チームメイトは、感動で皆泣いていました。 

   応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。 
  
   スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。

   甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで きて、
   とても楽しく野球が出来ました。 

   そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。 
   
   甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。 

   これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。 

   ありがとう、お父さん!! 






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■ 【しあわせの手紙】 「誕生日パーティー」


    私が23歳の頃、就職1年目の冬、私の誕生日の日のこと。 
    職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、
    家に、「今日は遅くなるよ。 ゴハンいらないから。」と電話を入れたら、
    父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」 と言う。

    「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と私が言うと、
    いつもは 温厚な父が、
    「とにかく今日は帰ってきなさい、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。 

    「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。 
   
    家にはその春から肋膜炎で療養中の母と、電話に出た父。
    食卓にはスーパーで売ってるような
    鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキ3つ。 

    「なんでわざわざ帰らせたの!私だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」
    と言ってしまった。 
   
    父は何か言ったと思うが、覚えていない。
    母が、「ごめんね。明日でもよかったね。」と涙ぐんだ。 

    私は言い過ぎたな、と思った。
     でもあやまれず、もくもくと冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。 
  

    その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。
    仕事帰りに病院に行くと、父がいた。
    
    廊下の隅で、
    「実は お母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめんね。」
    とつぶやいた。 

    呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。
  
    あの誕生日の日のページに 「○子に迷惑をかけてしまった。」とあった。 

    ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。
    
    夜が明ける頃には 涙が出なくなった。すごい耳鳴りがした。 

    4,5日して母は死んだ。
    仕事をやめて、看病していた父も数年前に死んだ。 

    父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。 

    母にとっては最後だったのに、、、。 

    父も数年後に死んだ。こんな情けない自分でも、がんばって生きている。




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